既に現代社会では「大規模展示モデル」という興業がオワコン化してると思います。
(ええ、オリンピックでさえです《最近は候補地の立候補すらおぼつかないと聞きます》)
人を集めすぎることが既に非効率ですし、リモートワーク含めて自宅SOHO化が進む昨今のネット社会と全く親和性がありません。
(仮の話、SNSの話題が万博ばかりになったら、どういう多様なインターネッツなんですかww)
不動産的には(悪く言えば産廃投棄埋め立て島を)地上げ目的の大規模プロジェクトとなりますが、中国の不良債権化する不動産開発に代表されるように、不動産開発の計画としても”終わってる”方式なんです(このやり方で長期的な不動産価格の安定が得られるとは思えません)。
公団が郊外にニュータウンを作っていた時代じゃ無いんですよ?
何を勘違いしているのでしょうか。
街のデザインを考える上で、混雑の回避と快適さを両立するキーワードは個性化です。
先進国が大量生産マルチプロダクトをやめて、個性化多品種生産にシフトする過程があるのと同じです(後にこれが先進国には開発設計部門だけを置くグローバリズムになるのですが)。
不動産も重厚長大大量生産みたいな開発が馴染むのは「途上国の場合だけ」なんです。
日本のような先進国の場合は、空き家かする相続者不明の家屋だとか、地方のシャッター商店街問題や、「本屋さんが消える問題」をどうするかなど、個性化に関わる”小規模だが高度に検討された街づくり”のが大事になるんです。
※極端な話、大規模住宅開発やリゾート開発するが、出歩く街の店がFC店や誰が行くのか無駄な高級店しかない場合「それ自体が現代的に不評な状態」に違いないのでナンセンスなんです。
万博やオリンピックが戦後途上国の国威発揚イベントであったように、
本来先進国のやることじゃないですよ、もう、、(サウジあたりがやればいいのに)
何を間違えたらそういう発想になるのか(金に目がくらんだとしか思えない)さっぱりわかりません。