『経済原則』って言葉があるけれど、小泉改革じゃないが新保守主義的な考え方するにしてもそこには公正な市場原則が前提になる。「なんだか何所で決まっているんだかわからないぞ」な計画には経済原則ってものも存在しないんだと思う。
昔はそりゃ街並みってものがあって、商店街には商店街の合いデェンティティーもあったから文化として慣習法の日本に倣ってそこは「なんとなくこうじゃなきゃ」な雰囲気ってものがあってそれはその街の街柄にもなった。
都市計画じゃないけれども、実質風俗業の許認可官庁みたいな機能になっている所轄警察が「ここは風俗街じゃネーぜ」みたいな取り締まりをやってなんとなく文化として風俗の許されている街、許されない街なんかも安定的に推移してきたように思う。
ところが昨今行政が大方針を決めて(これはNYジュリアーニ的発想の影響かも知れないけれど)、過去風俗街がアリな街から忽然と風俗店が消えたり随分昔の浄化作戦で一部職種の風俗についてかなり厳しい街として知られていた吉祥寺に露骨な風俗店が増えていたり、都市計画流行の昨今の方が街が乱れているように感じるのは私だけなんだろうか。
駅前大規模開発に関しても、裏でどんな話があってどーなっているのなんて暮らしている住民にはほとんど寝耳に水で(そりゃ国会中継見ても市議会の論議なんて商工会の人ぐらいしか興味ないだろうし)、
「あら知らないの?駅ビルになるからここ一帯のお店は全部なくなっちゃうのよ」
「ほんと、どうなっちゃうのかしら」
「なんでもあなたこのへんはずーっとあの西友まで歩道橋になって、自転車じゃ不便でどこもいけやしないじゃないわよね縲怐v
なんて事になっている。有権者なんだけれどね(笑
ある意味視点沿線で、その鉄道会社が相当地域の不動産利権をもっていれば「一企業だとしても経済原則ぐらいは機能する」ので、この沿線は俺のものだぐらいの勢いでキャラクターも鮮明になるだろうから、こっちの方がまだアリなんだろうと思う。
かといって、なんでもかんでもやれ民主主義だと地方議会であれこれ話されても何が何やらって事になるから「勝手に債券発行して変な予算つけるなよ」ぐらいの監視は必要な時代なのかも知れない。
だから、地方分権するにも有権者の意識がついていっていない以上(これ本来地方議会に対する関心がもっと高まってからじゃないと意味無いし)、なんか気がついたら開発計画決まっちゃってるなんて話になり、『どこの街も同じに見える現象』になってしまう。ついでに、その街じゃ有名だった小売店が消滅なんかしたなんて結果になるとなんのための誰のための再開発なのかわかりゃしない。
ここでも『デザイン』って認識が欠けているのか?
「開かずの踏み切り」とか、バスルートの需要が多いのに駅前ロータリー経路の拡幅が進んでいないとか駅前商店街の後継者問題や災害に備えての避難路とか個別に対応が必要な事例は多いと思うのだけれども、巨大な歩道橋を設置して駅前高層マンションまでダイレクトだみたいな(近すぎくないか、、)再開発はこれ如何なものなんだろう。
マンション的生活希望にも良く考えると潜在的には高級アパートへのニーズがあるように、あまりに素人感覚の利便性とか高層化や商業地域の必要以上の拡大は昨今の人口移動(郊外から都心部)と何らかの関係あるのじゃないかと思う。
都心部には意外なところに伝統的な商店街が残っていたり、マンションのあるところにはマンションが、低層地域には一戸建てやアパートとそれぞれに場違いな感じがあまり感じられない。
かといって民族大移動みたいに「さあみなさん都心部へ」なーんて事は非現実的だし、
巨大な資本があるのも現実、
だけれども、レトロなマンションへの人気ってそんな世界への反発なのかもしれない。デフレをいいきっかけに『スローな開発』って新コンセプトが登場してもいいのじゃないかと思う。
キャッチコピーとしてもいいと思うんだけれどなぁ
どうでしょうか『スローな開発』、
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街の再開発を考える
2006年12月05日
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