果たして「掃除」等という行為に全く縁の無い私が何を話そうというのかって部分はあるんですが、あるんですが、、
みなさんどうでしょう”大掃除”より日常の”掃除”の方が大事な気がしませんか?
何故って
「年に数回あるかないかの大掃除」
これ既に現象として、それ以外のかなりの長期間は大掃除の必要な状態ってことになりゃしませんか。
それは普段手が届かないところもって意識あるでしょうが、昨今家財の汚れに対する耐性はご存知のように強くて(汚れが取れやすいとかつきにくい素材が選ばれている)、時間規模的に『大事になっているので大掃除』って要素も交代してきています。
この辺「片付ける」って概念もよく似たところがあって、
「時々きちっと片付けない事には気がすまない」のだとすると、それ以外のかなりの長期間は散らかり放題って事になりゃしませんか。
何でしょうか、
商品にたとえるとわかりやすいかもしれません。
綺麗に梱包されたプレゼントなんかは、それはそれはきっちりとした感じします、
しかし包装紙をビリビリと破いて箱を開けて中のものを出して、
既に大騒ぎな状態ですよね。
そんな関係で日用品なんかになると『過剰包装』が別問題になっている。
そうなんです、過剰包装のような大掃除ならかえって”リバウンドが大きい”、
ひょっとすると、綺麗に梱包されたプレゼントを開封する瞬間の快感、つまり心理学的に言えば「破綻(無礼講:笑いもこれに属します)」のための”ストレス充填(開放前提)”であるかもしれません。
となると、
収納庫ってのは薬室(チェンバー)に似た意味が暗韻として成立している事になるので、「大掃除とは、新規巻きなおしのためのエネルギー充填」と言い換える事もできます。快感のサイクルっていうとこれまた大袈裟に思いますが、
似た構造にあるのじゃないかって
思い出してください、
大掃除がメジャーな時代は古式ゆかしき”モノの少ない時代”です。
そりゃこの当時にもお金持ちはいたでしょうけれど、そもそも”パーソナルな趣味的商材”が少なかった時代です(個人のものなのか家のものなのかわからないかんじ)。
大掃除の儀式的な意味も深かったように思うし、快感のサイクルっていうか生命のサイクルに近い体感もあったのじゃないかと、
そこを踏まえて”現代社会の大掃除とは何か”。
やはり、普段の暮らしが散らかり放題になるのは「モノ多杉」。
思うに「嗜好が定まらずに総花化しているために”散漫に”」
”散漫”だから散らかっているのかと、
であるなばですよ、
現代社会の大掃除ってのは、心理的な方向に”何が何”する事なのかもしれません。
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