前回の続きです
>次回は都心部と郊外におけるトレードオフを考えてみましょう
場合によっては直近の特集にあった”マスメディア論”にも被る話なんですよね。
何故って、「きっと普通こうだよね」とか「○○なのが常識だよ」などの共同幻想のかなりの部分が現代社会において(社会学的意味でのメディア自身の構造保守依存による偏向などの形で)スポンサーや政府の経済政策に都合のいい方向に煽られている側面が大きいので、結果として現場の現場である不動産における窓口で「いったいどうしてなのだろう」と違和感を感じる状況にあるからです。
ここ相場感覚においても、実際にあるところです。
都心部と郊外の相場の違いは”トレードオフ”の関係があるだけで「どちらかが絶対」ほどの違いは存在しません。
都内でも”探せば”6万円台のアパートがあったり、7万円台のマンションがあったり可能性的には予測を超える物件を目にするのは珍しくありません。
「相場を離れる(レアな)部屋」が頻度として郊外より都心部の方が多いからです、
これが概念として何かといいますと、
例えば不動産的に土地の評価額が非常に高い地域なのに「古築木造アパートが残っている場合」既に相場を離れるんです。
理由は簡単で、再建築不可の立地にあるとか(非常に大規模の再開発が無い限り単独で売却等の流通そのものが難しいなど)、古くから歴史ある庶民の街で旧法借地権が複雑に入組んでいて当面再開発が考えられない地域であるとか、
非木造建築に関しては都心ほど歴史が古く上物評価的に減価償却しちゃっている古築マンションが多数存在する、古築分譲が多いので一室単位の分譲賃貸が郊外に比べれば特別に多い(偶然不動産市場で格安な時に購入したオーナーは利回り計算的に収益確保ができればいいのであって→オーナーの購入価格に賃料が連動するため→地域の賃貸相場から離脱)。
探し方は簡単です
「賃料○万円の住居が○区に存在するか」
後は”トレードオフ”なんですよ、
自分の求めている生活の内容として「工夫次第でどうにでもなる」戦闘力の高い賃貸ベテランの方(賃貸強者)であれば、全然OKな選択肢になるでしょう。
逆さまに言えば、通常選択肢として馴染みが無いのでなかなか思いつかないケースが大半で結果として(ここは市場原則)想像するより郊外の賃貸住居の相場は高いのです。
※といっても郊外なのに高いのは”風評相場”のあるところに限られます→ここ完全に逆説なんです「簡単に思いつく地域(駅)」の潜在需要が実需を上回ってしまうため。
面白い心理が表れているんですよ。
本来好きで東京を自分の暮らす街として選んでいるのであって、その理由(自らの東京選択の背景)に関わる地域に関心が無いとか、東京が意図するものが特定されない(仕事関係など個人的な選択として東京に来たわけではない)と、
「どこに暮らすって、、○○かな」
「普通そうじゃないですか」
『選択の意思が不明瞭であればあるほど、選択肢が固定化される』という現象の典型事例です。心理学的に言えば「自己責任としての自らの意思による選択の明瞭化と”認識される自由の幅”は連動」します。
えー簡単に言い換えると
・自己決定や選択が曖昧だと認識上の現実世界における選択肢は減少する
・自己決定や選択が明快だと認識上の世界が拡大し体感上も”自由”を認知する
これは『トレードオフの概念』そのまんまの話になります、
なんと申しましょうか
「選択における自己交渉力(選択・決定力:弾性値)が高いとクライアントの幅も広くなる」みたいな。
ですからここを逆さまに利用されると
・意図的にマスメディアが特定の情報を定番であるかのように報じると(仮想上の)常識化が(共同幻想の原則で)成立してしまって、無意識なまま(なんら自己決定無しに)漠然と「普通さこうだよね」が構造化する。
↓
現実世界の選択肢の狭さを窮屈に感じる→「”意図的”既成概念に無意識に押しやられ、結果として常に一定レベルの不快感(選択肢の喪失)を感じる」
↓
「なんかあれよね、いい○○って無いわよね縲怐v
↓
心理学的に言えばこの体感は錯覚というか一種の”パラドックス”
なんですよ縲・br style="clear:both;" />
話を大元に戻すとですよ
せっかく爆発的な選択肢の街東京に暮らすワケですから、その自由度を自分自身の自由として体感(選択しないのもの自由なので→必ずしも獲得しなくてはいけないのでは無い)していないとするなら「何か変」なのですよ(笑
当然何から何までメディアのせいにするのもおかしな話ですから、
現代社会は「リテラシーの時代」でもあると、こういう落ちです。
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居住性能からみる部屋選び(2)
2009年06月23日
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