社会心理的な話になるので少々難解になるかもなんですが気長にお付き合いください。
いきなりですがひとつパラドックスです。
『自分の土地の地下に石油資源を発見』
ここ掘れワンワンみたいな話が実際にあったとします、
そして(まー科学的にも100%あり得ない話なんですが)その深さが地球の半径の半分ほどだった時→『所有権面積は激減』しますよね?
地球丸いですから、
反対に成層圏まで突破せんばかりに高いタワー型マンションを建造すると
→『空中権は倍増』する、
地球丸いですからね。
同じ発想で言えば地球が毎年巨大化していくと、
所有している土地も比例して拡大成長します。
なんの話かっていうと、
つまり、最深部のコアまで掘り進むと土地所有権は「点になり」事実上消滅する。
(超高層タワー型マンションの土地所有権の大きさの話どころじゃなく)
しかし、この話がナンセンスなのは「流石に成層圏から上とか地球のコア深度まで所有権を主張する人はいない」からです。
よく考えてみてくてください、
どういう事でしょうか?
「ある程度の幅(空中権と地下埋蔵物の権利)の表面的な所有権です」
これって事実上土地所有権における心理的認識って「地球は平面だ」レベルだって事になりませんか?ええ、所謂『共同幻想』上の概念としては土地ってあたかも地球が平らであるかのような発想の中で認識されていて、この”仮想現実っぽさ”こそが
「人が勝手に決めていることに過ぎない」なるタネ明かしの本質だと思います。
以前月の土地や火星の土地を勝手に所有権設定したりって冗談半分のニュース報道あったと思いますが、「なんの権利で地球人が勝手に火星の土地の所有権を主張するのか(笑」みたいな冗談があるように、この地球上の所有権も社会契約的な仮想現実(経済における想像された信用の概念のような)のひとつだって事です。
何も情緒的に「地球は人類だけのものじゃない」みたいな話とは正反対にですね、
実に簡単な事なんです。
仮に大金投じて東京都心の某土地を購入したとします。
しかし、この日本が某国から宣戦布告されて日本が侵略され東京が奪われたら?
(或いはインフラが機能不全になるほどの焼け野原にされたら?)
権利も何もですね、
この社会契約上の権利は『日本の国体(右翼的意味じゃなくですよ)あっての権利』に過ぎません。
経済学で言えば「いくら貯金しても、日本経済が破綻してハイパーインフレになれば紙屑同然になる」のと同じです。
我々の資産などというものは、日本の国益の中の一部であってこの土地が仮に普遍であっても(地球規模の時間ではいつか氷河期かもしれませんが)、その実態は流動的な経済の概念の上に存在している”日本社会”なる占有の元に成立しているに過ぎなくて、
「ここは絶対(何があろうと)俺のもんだ!」
みたいな現実は最初からどこにも存在しないのです。
(同様表現「巨人軍は永遠に不滅です!」)
日本なる国体(これ天皇制であるとか右翼的意味じゃなくですよ)の上にかりそめに成立している幻想の一部であって、
社会契約上の『日本という国家における法的な意味での所有権』というひとつの債権ってか、えーーっと、
そういう事ですよ(笑
だからこそバブルの崩壊のように、日本経済の動向によってはその価値が暴落したり反対に高騰もするワケです。
単純に造成された宅地の機能も、『道路電気水道ガス』って社会インフラあって始めて機能するもので、自分が購入した権利によって「絶対の性能込みの所有権が永久に発現している」事はあり得ないのです。
ところがですよ?
街に暮らす”野良猫”とか、
彼らはそんな所有権であるとかの日本の法律的合意性に何ら関係無い人達ですよね。
(国籍も無いし)
「何の許可があってこの街に徘徊しているのか?」
のように問いかけられてもですね、関係無いんですよ。
(人の手によって現実を捻じ曲げて増えすぎてしまう等の要因は、区の補助でNPOが避妊手術等進めているので東京の場合かなり高度にプルーフされています)
疫病であるとか、人間の側の事情で大問題になれば(それも人類の横暴かも知れませんが)、生存競争の一部として人類が勝手にさせてもらいますな振舞いも社会的は合理性ありますが(人類だって動物ですから)、
エジプト文明以来人の暮らすところに自然に暮らしてきた同じ生き物なのであって(治外法権とは言いませんが少なくとも彼らは日本の法律も知らないんだし)、
※人類の増殖によって絶滅している動物の事も考えなくちゃいけませんが人類の繁殖と経済圏拡大という”ひとつのヘゲモニー”は人類にとっても確信的な『エゴ(我思う)』でもあるので、生存競争的に言い訳しても仕方が無い(節度や限度ってものは当然ありますが)。そこまで考えてしまうと”家畜に権利は無いのか”って話にエスカレートしてしまいます。
「我々人類のエゴ(我思う)も自然界の一部である」
確かに個人的にネコ・アレルギーがあるとかなら忖度する部分あると思うのですが、
「野良猫が家の土地に勝手に入ってんじゃないよ」的な態度って、
、、気持ち的は理解できますし、
迷惑な事が事実関係としてあるのであれば無理も無い部分あると思いますが、、
確かに思うんですが、、
その根拠となっている所有権の解釈に心理的な無理があるのじゃないのかと思うんです。
権利の解釈が深層心理で”絶対権”のような過剰な意味にエスカレートしているのじゃないか?
この話って、
分譲マンションの建替え決議の紛糾要因とか、
某区で頻繁に発生する「公道と宅地の境界紛争」とか、
地域が反対運動しているところに強引に開発業者がマンション建築しちゃう問題とか、
不動産における様々な問題に共通する要素なのじゃないかと思うんです。
同時に右寄り保守派のみなさんが歯がゆく思う、愛国心であるとか国益の防衛における淡白な社会心理の原因なのじゃないかと。
(私は中道単独者なので、右寄り保守派の肩を持つつもりはありませんが、確かに国政選挙なんかの時に安全保障がほとんど争点にならないとかに若干の違和感感じるのも確かなので→本質的に日本の法律で保障されている権利や資産ってものは”その実態はとても脆い”。日本という国家と関係無く”絶対の権利”は発現しないのです、)
そこには野良猫との距離感や分譲マンションの円満な建替え決議が成立するような「社会的合理性」は無いのでしょうか。
<つづく>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
社会における契約の話(所有権とか)(前)
2009年09月23日
この記事へのコメント
この記事へのトラックバック