不動産における所有権等における「社会的合理性」の幅ってどんなものでしょう。
それこそ『絶対権』のように考えればズバリ相続税の徴収は所有権の侵害になります。
(単純に住宅として利用している不動産の売却に関しては免税措置とかありますが)
個人的には現行の相続税の体系はGHQの新たな財閥勃興阻止と現行財閥の解体なんてーな意味があったので、無理のある農地法同様に是非改正していただきたいと思うんですが、
とにもかくにも法的解釈としても『絶対権』のような所有権は「保障されていない」。
SFじゃないですが、
将来、高齢者の福祉とバーターで相続対象者の無い高齢者の資産は(当然国民総背番号制で)自動的に国有資産に編入されるとか考えられない話でも無い、
造語として『後期先進国』なんて概念があれば、その人口の維持は必ずしも血縁関係における出産に過度に依存しなくなるのも想定の範囲でしょう(未来には超高寿命化や国内ロボット資産の生産性なんて概念も登場しそうですし、広い意味で後期先進国は多国間における”都市部”を意味してくる→コスモポリタン化)。
何も左翼社会主義的発想と無関係に「所有権は流動性無しに考えられない存在」になります、そもそも人生の時間的幅が拡大するので(大人としての稼動時間が各20年オーダーで1期2期3期とか)終身雇用の概念と無関係なところから文明論的に転職の無い人生は存在しなくなるかもしれません。→余計に流動性の高い所有権の概念が期待されてくる。
民主主義がそうであるように、
一票の重みじゃ無いですが、地権者の重みって社会性も尊重されるべきもので(マンション建設反対運動とかも)、「その権利の軽重」は論議の必要あるんだと思います。
ここも所有権に社会性が内包されているからこそ合理性が発生するのであって、「誰かの所有物」的個別性が高くなってしまうと「ウチの敷地に入ってくるな」系の”心理的な過度の所有感”の方向にいってしまうので、社会的合理性は反比例して落っこちてしまうのです。
※一見矛盾するような話なんですが『分譲マンション』で考えるとわかりやすいかと、
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分譲マンションの管理組合の議決には「当該マンションの資産価値の保持」って要素も当然含まれてきます。棟全体が寄与する資産価値のファンダメンタルは個別に存在しますから、各個室単体で個別に資産価値を維持することは限界あります(一種の共同体社会)。
社会性の認知は=「個別所有権における権益の限界」になりますが同時に「個別所有権部分の資産保全」でもあるので、両者を繋ぐ鍵は『社会性』になります。
一戸建ての土地所有に関しても、都市計画に失敗して地価が暴落すれば一大事ですし、その反対に都市計画に成功して地価が上昇する事もある。
つまり個人が自分の資産を保全する上で、社会性認知は外せない概念なんです。
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その反対に、個人の自由というか「きままな一人暮らし」な世界は圧倒的に賃貸の方が上になるので『分譲か賃貸か』なる選択は各人個性の範囲で人生観として選ばれるのが筋論。
※なので行政にお願いしたいのは、賃貸住宅を借りる場合の審査基準や保証人の問題について法的なサポートが弱いことで(日本国籍を所有する者が生活の基盤となる住居を確保できる権利が保障されていない→役所の人も根拠となる法整備が存在しなくて、それこそ営業さんのように民間の事業者にお願いしていたり自治体の現場は”なんとかかんとかやりくりしている”実態です)、分譲を考える意味でも両輪として賃貸の整備は重要なんです。「高齢等の問題で賃貸契約に難しい部分があるので→不安から分譲を選択しなくちゃいけない」な構造が残っていたら、そりゃ先進国じゃ無いでしょう。
少々センシティブな問題に触れると、
「意匠デザイナーが明快に存在する建造物を自由に改装してもいいのだろうか?」
これは法的にNGな場合あります。
(ほんとの話です)
某管理会社の担当の方から聞いた話なんですが、
ある著名な意匠デザイナーの設計による事業ビルを所有者が「一部改装建替え」しようとしたところ、意匠デザイナーが「それは私の芸術作品でもあって、これを合理的理由無く改装してはいけない」と訴えて勝訴したって事例があります(改装差し止め)。
この話が何の参考になるかって言うと、
所謂リノベーションに関しても「オリジナルの趣味性」ってある程度尊重すべきなのじゃないかと思うんです。
『デザインにも何らかの社会性がある』のじゃないかと、
(微妙〜な範囲の歴史というか文化財的価値というか)
この前のエントリーにおける「土地の縁起とか運とかって部分」の話に被っているのじゃなかろうかと。。
ここも拡大して「個別の室内改装」で考えてみると、
合理性から言えば「和式トイレを洋式に」とか「バランス釜を給湯ユニット型へ」とか「和室をフローリングに」等、誰しも問題無く「これはアリだな」と結論出る部分はあると思うんですが、
「このキッチンの方位を、こっちにするのはどうなの?」とかですね
(ここで再び風水論とか思い出していただけると話の意図がご理解いただけるかと)
『改装デザイン研修』みたいに、「これはアリだが、これは無いだろう」って一定の幅はどこかに存在するのだろうと思うんです(歴史的社会性とか合理性)。
※この話は改装批判じゃないですよ
(それほど個人的希望と現行との間にギャップがあるなら→引越しした方がいいからです)
ひょっとするとの話ですが、
潜在的な改装希望の一部には「自分のものである的実存への欲求(ハードな所有感)のための改装」もあるのじゃないかと、
賃貸の場合「自分の個性にあった地政学的位置取りや間取りの部屋を選ぶ」事の方が本質ですから→必ずしも現状を大規模改装することで『運や縁起』の腰を折るリスクもある。
※土地を購入→注文住宅によって全くオリジナルなデザインをって場合は”起業”に相当するので概念違ってきますけれど、この場合にも社会的限界ありますものね?(逆にそれを超えるから”プログレッシブ”で面白いって場合も「社会的限界の想定」が”超える”前提なのですし)
縁や運って素性には「賃貸だからこその面白さ」ってやっぱりあります。
※矛盾するように感じるかもなんですが、自由度ってレベルで考えれば「分譲より賃貸の方が上」なのは確かです。
話は戻りますが、
厳密に言うと改装希望の全てが「DIY的に半ば未完成状態の素材のような部屋へのニーズ」では無いのだと思うんです(ハードな所有感を満足させるため”改装のための改装”のような)。
※個別にそういうタイプの賃貸があったらいいなとは思いますよ←ココは別の意味で。
法的にも「借主貸主合意における改装企画のガイドライン」みたいなものがあれば、とても建設的なので(自分で負担した改装による性能向上を賃上げ無しに獲得できる上に退去後には貸主はその造作の譲渡を受けられる)、ここも是非行政に検討してもらいたいところなんです(原状回復ばかりに目がいってますが)。
しかしこの話って又別物ですものね。
(キッチンシンクの交換とか浴槽の改装や壁の遮音性能向上やら「長期間の定期借家契約」とかを前提にして改装承諾の法的ガイドラインが『東京ルール(紛争防止条例)』みたいな形であってもいい)
仮にですよ、
ここまで話てきた賃貸における選択肢の自由度と法的保障がスッキリしてくると、誰もが殊更ハードな所有権の誤解に引っ張られる世界は後退するのじゃないかって思うんです。
(「マイホーム」って言葉も”抽象概念”のひとつでしょう)
賃貸でも明快に改装の幅が規定されたり、どんな年齢でも普通に賃貸契約ができる法的整備が行われていけば、分譲における所有権が絶対や無限では無いのと同じで(それこそ結婚だって永久じゃないし人の命も永遠じゃありません)、
「所有権の合理的な認知があってこその社会性」って心理的基盤はあり得るのじゃないかと思うんです。
改めて思うことは「賃貸契約や管理における公的なガイドラインや法整備」が後れているから問題がややこやしくなっているんでしょうね。
この問題は思う以上に大きいですよ
暮らしにおいて「分譲と賃貸」は両輪ですから(それこそ社会性リンクで相互関係にある)、合理性の高い社会的認知が(ステレオタイプなお仕着せでは無く)しっかりしてくる事で、こうなんでしょう暮らし向きの風通しがよくなるっていうのかしら、モヤモヤしているものがスッキリしてくると思うんですよね。
↓
現行存在する「ハードな所有感」なる潜在意識って、そんなモヤモヤに対する反動なのじゃないでしょうか?
簡単に結論の出る話じゃありませんから、
又回を新ためて考えていきたいと思います。
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実際の話賃貸で「○○地域で個性的な部屋はないかしら」って調査する時は探している方もそれはそれは楽しいワケで、「現実こそ小説より奇なり」と本気で思います。この賃貸特有の爽快感って言うんでしょうか、東京なる都市文明の財産(運とか縁とか偶然による分岐点の多さ)なんだと思いますよホント。
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社会における契約の話(所有権とか)(後)
2009年09月24日
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