早すぎた『メタボリズム』とでもいいましょうか。
現代社会におけるシングルライフで初めて「あれコンパクトでもいいかな」な選択可能性は現実的になったと言えるでしょう。
それはそれひとつの雛形でもあった中銀カプセルの内装は当時として最新であってもオーディオライフひとつとっても無理があって(当時のオーディオは今以上に大型のリスニングルームを必要とした今でいうホームシアターと同格の存在)、内装設備的にもデザイン優先で実効性はどうだろうって、確かにプログレッシブである事自体が存在証明みたいな一面あります。
http://kagewari.cside.com/blog/2007/02/post-3bfb.html
http://kagewari.cside.com/blog/2007/02/post-e494.html
http://kagewari.cside.com/blog/2007/07/post-3a71.html
(等々:軍艦に関しては他に論議もあると思いますが)
しかし言葉の響きとは別に
(”メタボ”かと思ってしまいますものね)
都市構造と生活の有機性は、モバイルノートPCであったり携帯電話であったり、iPodタイプの音楽視聴であったり環境問題含めて「選択的ミニマル」が(モバイル的に言えば”ウェアラブル”)確かなものになってきてます。住居設備的にもコンパクト化の技術進歩もあります、
といってもこれは『選択的』なものなので、トレードオフに選択されているに過ぎませんから現代でもオーディオだけでなく生活空間の内容を考えれば「床面積は広い方がベター」な”選択”も同時平行に存在するのは確かです。
何が何でも広い方がいいって常識化は無くなり選択的になっているって解釈が正しいでしょうね。
住居の世界やデザインの面で言えば「広い方」は随分と進んでいますが、コンパクト系は「賃料(や価格)が安いタイプ」の世界に取り残されている一面あります。
車に関してはコンパクトカーの方向性が常に大型高級車と並立しているのですから、住居の場合もそういう提案はあって良かった筈なんですがなんとなく時代の中で忘れられてきた一面あるように思います。
都市計画デザイン含めれば概念としては「都心部でミニマル・郊外ではワイド」な棲み分けあっていいところで、選択的なる言葉があるように話を単純化すれば「同じ賃料で両者が選択的位置付け」になっているのが理想的なんですよね。
土地評価額を設計的に相殺して「どっちでも選べますよ」みたいな都市デザインです。
ここ環境問題に照らしてもとても合理的な話で、
↓
床面積の広いところはソーラーパネルの一戸当たりの面積が広く取れる(しかも低層)。
床面積が狭ければ消費電力そのものを低くコントロールできる(ある程度高層にすると入居者戸数が多いので共有セントラルシステムも合理的に検討可能)。
将来的に「全住居の環境住宅化」を政策化するにもわかりやすい話になります。
※三鷹市とか世田谷・江戸川あたりなら面積的に(効果の実証はともかく)自治体の風力発電なんかも検討できるのじゃ?都心部の場合ビル風利用の風力発電とかもあり得るかもです。
コンパクトだからこそ選択肢として別の意味で魅力的なデザインとは何か?
現代社会だからこそ大きな意味を持ってきます。
例の都心部における1Rマンション建築禁止条例の論議も、コンパクトデザインの置き去り問題の影響が大きいんだと思うんですよね。
参照http://kagewari.cside.com/blog/2008/08/post-7000.html
きちっとデザインを詰めておけば赤坂レジデンシャルホテルじゃないですが、管理人常駐の在り方であるとか棟としてのゴミ出し方法の検討などできることは沢山あって、目先の集客ばかり意識して、ネコもしゃくしも意味のはっきりしないフローリング化しちゃったりしている場合じゃ無かったんですよ。
ライフスタイルを提案するデザインでなくっちゃ
さて、具体的にどんなスタイルが在り得るか考えを進めてみます。
<つづく>
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ミニマルコンパクトライフ(1)
2009年12月16日
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