抽象概念として「いい部屋」なんていうステレオタイプな雛形は存在しないことは随分語ってきたところでもあるんですが、
そんなキャッチコピーが潜在的に意図している内容ってものは『合理性』のことなのでしょうね。
てことは、住居における合理性を詰めて考えていくと→「所謂キャッチコピーとしての抽象概念である”いい部屋”なるイメージ」の意図した結果に結びつくのだと思います。
当然各人が求める『住居における合理性』ってものはバラつきます。
・仕事関係の利便性
・帰った感の強い部屋
・趣味性優先
・高い設備の堅い選択
(・意外性なんてのもあるかもしれません)
部屋探しの前のシミュレーションとして、こんな風にいくつかのパターンを想定して選択肢として特定してみるのもお勧めです。
事前に想定して「選び終わっておく」と、実際に希望する部屋の『求める方向性』であるとか『優先順位(トレードオフ)』が鮮明になりますから、風評であるとか先入観でリミッターがかかって曖昧な選択に歩留まりするような失敗がありません。
それだけでなく、
「考えてみるとそれほどじゃないような?」
心理的にはこういった現象誰しもあるもので、意識の固着といいましょうか、一種の象徴化ですね。
連想トリガーと言い換えてもいんですが、本音とは違うのに「その言葉にはどうにも引っ張られる」(フェチシズムとは違うんですが論理構造は似たようなものです)現象があります。
この現象を中和するのは案外簡単なんです。
「だったらいいなぁ」と実現可能性の無い空想レベルのままだと延々と継続してしまい場合によると希求する気分も強化される事もあるんですが、
「実際にそれが手に入ってしまったとしたら本音はどう?」とですねリアルな話(空想レベルの反対で実現してしまう前提に切り替える)で想定してみるんです。
大概はリアルな想定で「切れます」(笑
「いやぁ思うだけだとあーでも無いこーでも無いととりとめもなくとどまる事も無いのだけれど、目の前にあってさあどうぞと言われるとなんていうか”それほどでも”」のように、自分でも不思議に思うぐらい『本音では執着無い』結論だったりするのです。
のようにですね、
実際に選択肢として具体的にイメージして比較することで「日常としての暮らしにおけるリアルな合理性」が”初めて”はっきりする事もあるワケです。
人って何かしら空想レベルだけの”何とやら”みたいなものを温存していたりするものです。
これは「空想レベル=本音対決無し」の図式なんですが、
勘違いしていけないのは『本音対決は”常識化”では無い』ところです。
個性化の時代の個人の本音がステレオタイプ化するとすれば(偶然一致することはあっても)それは論理矛盾ですから、いかにも”常識的”選択が負けで普段は冗談だろみたいに思っていた方が『勝つ』ケースだって山ほどあるって事です。
自分の中の合理性って話ですからね、
<つづく>
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住居における合理性(1)
2010年02月10日
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