合理性といえば理屈に合っているだとか、理に適っているなど『理(ことわり)』が前提であって、何か常識的なまとまりとは全く関係ありません。
心理的に考えるならば「能書きが語れる」だとか『理(ことわり)』意味そのままでも「もっともな」だとか「わけ」とかで(語源的には『ことわり(断り)』と共通のものと説明される辞書もありますね)。
ザックリ言えば「何何がこうである」と自分なりに語れる「ワケ」というか「理屈」があるだろうかって事ですね。(そう決断する”ことわり”でもある)
つまりそれが予め(常識のように)予定されているのもおかしな話ですから、個性化時代の特に”東京シングル”などの階層にとっての合理性と言えば「個性の間との道理」といいましょうか「そう(自分を)名乗る中で語られる内容(わけ・理屈)」のようなものとなります。
前回のエントリーに補足するならば、
「個性との関連性が本命」となりますから「=非常識」では決して無いのですが、偶然一致する常識的選択の中でも(その中でも)少々非常識かなと思える部分が「個性としての道理」となりますから(笑
(モロ心理学の話になってしまっていて少々難解になってますがご容赦くださいっ)
選択が「常識的?非常識的?云々」では無くて(それは当然「大上段に非常識宣言」するもの当然大アリです)、非常識とも見えるところ(不条理)に個性が実存するひとつの証明みたいな話です。
(ここも実存主義ほど大上段な話じゃないのですが、えーそれに類する話みたいな)
わかりやすい言葉でたとえると『チャームポイントの選択(とか宣言)』でしょうか、
「部屋探しでそんなに複数の選択肢なんて無いでしょ」なお言葉も聞こえてきそうですが、その判断から常識的過ぎなんですよ。
『街選び東西南北・安い方なら選びたい放題・SOHOなど仕事と関連すれば賃料が高くてもワリに合う』これだけでも選択肢は山ほど出てきます、
東京の面白さはこういった自由度であって(というかだから東京に暮らしているんですし)、それを最初から「選択肢なんて無いでしょ」と言っていたら東京の暮らしを選んでいる事そのものへの論理矛盾になってしまいますからね。
(東京の場合「転職」すら選択肢なんですし)
自分の中で辻褄が合うってこういう選択かな?
心理的にはこういうところが本音対決的にプルーフされていないケースって現代社会の場合多々ありますから、意識的にシミュレーションしておいて損無いのですホントの話。
肩ひじ張らずに気ままに選びたいものですよね、
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住居における合理性(2)
2010年02月12日
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