前回から、
>「いやいや、高齢者なんだから医療や介護って事もあるだろう」
>のような意見もあると思うんですが、
>私は全く違う考え方をしています。
昨今の高度医療と言えばそのままダイレクトに「最先端の高額治療」を意味していないんです。(ここは薬事法であるとか診療報酬などの政策的方向性も関係する話です)
むしろ今後伸びるのは「生活の質や内容を維持しつつ過剰に無理のある療法に偏らない」方向性もかなり高い確率で模索されると考えられます。
特に団塊世代の世代的傾向として、むしろそっち方面での医療サービスがより志向されるのじゃないかと思うんです。
となると地域行政にも求められる高齢者への福祉サービスは「自立する生活のサポート」となるので、あたかも”疾病弱者”のようなレッテルを貼って集約的な専用住宅を整備する事が必ずしも歓迎されないのじゃないでしょうか。
(ここは福祉行政の予算的にもですが、高齢者の場合「○年生存」のような枠組み自体が治療という概念の中でどれだけ意味があるのかって根本に関わると同時に某国際企業の論理で現代医療が一人歩きしている側面も一部で語られているのも事実です。)
求められる物件概要は「誰にとっても代わる事の無い住居性能の向上」であって、
普遍的に今以上の住居性能が(高齢者であろうが無かろうが)シングルタイプの生活の中で求められていくって事です。
その方向性は所謂「狭かろう安かろう」ではなく、
→『超高性能コンパクト』であるとか
→『超高性能シングル系ストゥディオ』であるとかの方向性です。
物件概要的にはネット環境も光接続をマストとして、行政なり福祉サービスなりNPOなりの活動の中で「高齢者の自立生活をサポートするネットワークを構築し」となるでしょう。
こういった性能は高齢者に限らない住居性能のインフラ部分だってことです、
(高齢者に特化するとするならばユーザインターフェース的意味での専用通信機器へのニーズでしょう:社会的インフラとハードの問題であるって事になるのじゃないでしょうか)
25u相当のシングル系にひとつ抜けて高性能の浴室を備えるであるとか、
3点ユニットでは無く、クルッとシャワーでも無い「転等リスクの無いシャワー専用ルーム」であったり、
管理人室機能の向上であるとか(入居者の中で一定以上の高齢者世帯がある場合棟単位で管理人常駐可能な補助金制度を作るとか)、既に実業として存在しますが”部分的家事サービス”であるとか、建築基準上の措置として緑化だけでなく共有スペース的サロンを義務付けるとか、
■こういった方向にシングルタイプの住居が特化していくと、
一般的なファミリータイプとシングルタイプはライフスタイルにおいても明快に差別化され(それぞれにそれぞれの豊かさがあるように)共存していく形になるんだと思います。
(昭和であれば階層的に「シングル→ファミリー」となっていて同時平行的な関係にはなっていない)
こういった側面から見ていくと、ファミリータイプに比べて「シングルタイプはまだまだ物件概要的に貧弱なのじゃないか」と思うんです。
論議として「まず平米数ありき」では無い話なので、ここはもっと積極的に高性能シングルが企画される事が”現代的需要に対する答え”になるのじゃないでしょうか。
(現在でも『分譲キラー系1K』に近い存在はあるんですが、コスト的に割高なんですよね→或いは広すぎたり)
※全てのシングルタイプを高性能化するって話じゃありませんよ、新しいジャンルとして(広さじゃ無くて)物件概要的な高性能シングルがより以上に求められるだろうって話です。
当然現在進行形の『無頼なシングル』も同時にあってこその『高性能シングル』って事です。
では前述以外に「求められる社会的インフラやハード」とは具体的に他どんなものでしょう。
<つづく>
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
高齢者専用住宅への需要について(2)
2010年03月29日
この記事へのトラックバック
(ケアハウスでは比較的軽度の人が対象なのと、食事、入浴時間や場所が他の人と一緒になるのが難点ですが)
ケアハウスのような形の施設や住宅だったら、認知症や重度の知的しょうがい者の方に対しても各個人のプライベートや生活ペースを保っていけるのではないかなと思います。
(できるならもうとっくに取り組まれていますかね…)。
私は勿論医療系の専門家じゃありませんが、心理学サイト運営管理者的経験からしますと、認知症とその発端そのものに共同幻想的依存傾向が関係しているのではないかと(あくまでも様々な関係要因のなかのひとつとして)「類推」しています。
(※繰り返しますがここは介護等は専門では無いのであくまでも類推の範囲です)
スポーツトレーニングというかトレーナー業務などにおいて昨今メンタル部分の検討って半ば常識になってます。
この観察は「あくまでも可能性の範囲内の話」ですが、共同幻想的メンタル環境が「高齢化的時系列変化要因」(参考として退職鬱事例なんかもありますし)を発端に認知症んどを発症させやすい傾向があり得るかもしれないという事です。
(トレーニングの逆成果みたいに)
だとするならば、
なんて言いますか「社会が免責されようとばかりに介護福祉ケースの”雛形”を造りこれを高齢者などに押し付ければ(ひとつ間違えば閉鎖病棟や禁固刑状態だというのに)あたかも文明的な秩序が保たれているかのような誤謬」、
これも賞味期限の切れた共同幻想には違いないワケです。
(汚部屋の権利だってあると言うのは言い過ぎかもしれませんが、少々文明の枠から外れたところの選択だってあり得る。個人の尊厳はそれだけ重い訳ですし、ホームレス志向の心理のような社会心理背景だってあります。)
心理学的に言えば集団生活以外の選択しかない制度はその時点でアウツでしょう。
(政治的にもそれは一種の権利侵害だと思います。)
集団生活がいけないという意味ではありません。
「事実上選択肢が(集団化)それしか無い介護福祉関係サービスは”選択肢の固定化”という部分で普遍的に権利侵害の可能性がある」という事です。
(※医療の分野における典型的指針である”インフォームドコンセプト”の概念が利用者の事情により非成立になっている可能性があるという意味です。)
そして、誰しもが高級ホテルのサービスを求めているかのような需要判断もナンセンスでしょう。
不動産の面で言えば、
勿論社会資本的選択肢となるので一種の都市構造論になりますが、
制度や政治が関係する場合(その特性上保守的傾向持つのが官僚的にはある意味正しいので)、初期状態に『共同幻想系の偏向』があるのは現代リテラシー的に”常識”として考えて間違い無いですから、
そこを事前に織り込んで市場バランスというか(経済均衡的に)、先験的に投資進めるのが民間の役割なのだと思います。
(※政府なり官僚なりの保守傾向を問題視し過ぎるのは又問題になります、政府なり官僚なりの職責のひとつは「保守的であること」です。ですからこの辺は公的セクターと民間が相互補完的に選択肢を拡大していくのが本来好ましいところです。←経済が安定成長傾向にあればの話になりますが、)