ちょうどいい記事があったので紹介します。
持ち家は「資産」なのか
http://news.livedoor.com/article/detail/5108006/
この話は読んだとおり「そのまんま」なのですが、昨今の経済学の世界でおきている話と少々関係してくるので、話をそっち方面にふっていこうと思います。
サブプライム破綻まで非常に有力だった経済政策は新自由主義とも金融経済学とも呼ばれ所謂北米型のグローバリズム(覇権主義)として金融世界が経済をリードする方向で考えられていました。
同様の論議は国家経済だけでなく各企業法人でも進んで(リストラ)決算期事の収益を前提とする財務政策が企業の方針をリードするような妙な現象を生んで(新自由主義が国家経済において緊縮財政・財政均衡政策を模索するのは同じベクトル)、場合によっては『いつから経済学は経営学の下部構造になったのか』みたいな論議にもなっていました。
※深いところで考えるなら新自由主義は『新帝国主義』のような代物で、第三世界に生産設備を移動させ「先進国は金融経済だけでよい」のような偏向を模索し「サブプライムで飛んだ」のであり、
つまりグリーバリズムを冷静に考えれば、国際経済関係の中で発揮される覇権構造において国家経済の枠組みそのものが邪魔とも言える存在となり(なので盛んに経済政策と言えば政府の行う政策では無く『中央銀行が主役の時代』になってしまった)緊縮財政であるとか財政均衡政策の意図しているものは”小さい政府(政府のリストラ)”だったワケです。
その流れで『郵政民営化小泉改革』を見ていくと(随分以前から歴史的に小泉氏が主張していた郵政民営化から意味合いが外れ)新自由主義的方便に乗っかった形にあったと見ていいでしょう。
(私は小泉氏がガチの新自由主義者だとは思っていなくて、彼特有の「手段を選ばない」冷徹さで新自由主義を道具として使おうと目論んだのだと思います:小泉氏のターゲットは野中氏であり経世会もあったので郵政民営化も手段だった。)
暴論覚悟で言えば新自由主義は『経理が一番偉い主義』みたいな恰好に滑っていった。
(本当は先進国の金融社会が世界経済を支配する覇権主義だったんですが、、)
■『持ち家資産論』もそんな形の偏向にあったと見ていいでしょう、
「幾ら借金するか」
本来ローンの総額がもっと論議の中心になっていいテーマです。
バブルが頭角した宮沢内閣時代を思い出してください。
当時は住宅価格の高騰が社会問題だったんですよ?
当時の政府は住宅価格を幾らに抑えるとか言わないとマスコミ報道含めて政権が持たない論議だったにも関わらず、デフレ時代の昨今は全く話題にもなっていないのは何か変ですよね。
↓
低金利と35年などの超長期ローンの創設により(よく考えればサブプライムと同じ方法論)、『資産なのだから総額は問題では無く月の支払額だけ考えればよい』
であるとか(既にサブプライム詐欺っぽいですよね)、
『低金利なので安心』
であるとか?⇒デフレで融資リスクを回避できるのは銀行で(インフレ経済だと2000万が10年後2000万の価値が無い)、インフレ経済による昇給を前提にできない時点で本来は住宅ローンは借りる側にとっても不利な話なんです。
注)本来は銀行がインフレリスクを回避するために金利を高めにして、消費者は高い金利を前提に早めの完済(借用総額を減らす)を考えるので⇒『住宅価格そのものが問題』になったワケです。
■更に言えば
高度先進国の日本は一大資産国家(ほとんどが60歳以上の世帯に集中)でもありますから、購入にあたって親からの融資も珍しくないため、(自分の金じゃないと)金銭感覚が麻痺しているとまで言いませんが『消費者の判断まで新自由主義みたいになっていた』側面があるんです。
なので案外上記リンクで紹介した記事の説明にあるように、
「資産がどうこうの(金融経済学的方便)じゃなくて借金は借金」
なる説明がいかにも新鮮というか実にあたりまえなワケです。
財務・資産という事で言えば『日本は既に優良な住宅が世帯数分資産として完成している(住宅公団が不必要になった時が分水嶺)』のですから、保守保全という意味でリノベやリフォームの時代となるのは当然として、ライフスタイルとしても(国家経済における社会資産の分配利用論として)どういった形で住居を利用するかと考える上で、殊更所有権に傾斜する日本の不動産の在り方は『極端に偏っている』のは事実です。
「分譲か賃貸か」以前に分譲をめぐる共通認識からして”ちょっと変”なんですよね。
又高齢化や少子化晩婚化の中、住宅の継続利用年数の減少が見込まれるのに対し、日本の住居の非木造化(耐用年数の増加)は促進しているワケですから、
「1世帯の利用で終わる(償却)」という住居利用の形は在り得ないのであって、効率的な利用を考えれば「売買・賃貸」ともに流通の透明化や促進が重要になります。
間違っても『貸付高を金融工学的に増加させて住宅価格が幾らでもよいように思わせる』事ではない筈です。
この辺の論議は昨今の経済学の変遷や今後の方向性含めて考えてみると(現状が)わかってきます。
勿論政治における経済政策の方向性とも極めて深くリンクしているので、政治と生活の距離は『高度先進国になればなるほど近づく』と言えるのじゃないでしょうか。
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経済学的に分譲と賃貸を考えてみる
2010年11月05日
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