※retourの方にもあげているのですがメールサーバ障害のお知らせがあります
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大変申し訳ありませんでした。
<ここから今回の本文です>
このエントリーなかなか興味深いものですよ
↓
私がグーグル、ゴールドマン・サックスを辞めた理由」―大企業を去る優秀な人材たちと問われる企業文化
http://www.takashimedia.com/blog/left-google-goldman-sachswhy-corporate-culture-deteriorate/
エントリーを読んでふと思ったのです。
(ここのところ私は随分と『フリーエコノミー論』の解釈に困っているのですが)
考えてみれば昔は各企業内に「フリーエコノミー的要素」は内胞されていて(これが内包されている企業が強かった)、現代社会において各企業がグローバル経済における金融資本主義的財務リストラに傾斜する中「企業内フリーエコノミー」は無駄なモノとして削除されていった(そりゃ勿論数値化できないからフリーなワケで)。
つまり、
かつて社会に内胞されていた「内部ネットワーク内におけるフリーエコノミーがインターネットにより外部化されていくのと同時に各企業はフリーエコノミー的要素を無駄だとして切り捨てた」って事なんじゃないでしょうか。
結局のところ既存の経済学などでは評価不能の『フリーエコノミー』の概念ってものが、考えてみれば昔はクローズドな世界の内部で細々と存在していて実はそこが企業自身のカルチャーなりのコアだった。
これがグルーバル化の時代の中(=インターネットの時代が対象性を伴う関係なので)外部化されると同時に急速に拡大している。
あくまでも仮説なんですが、
所謂既存の株式会社組織って”セル”そのものが滅びの過程にあるのでは無いでしょうか。肝心要の「社内フリーエコノミー的なるもの」の切り捨ても経済学的に株式会社的在り方の限界を自爆的に表しているのかもしれません。
↑
勿論ここは後期先進国固有に発生する『共同幻想崩壊過程』と対を成す現象であって、
考えてみればギリシャ危機は本来通過がドラクマのままなら急速なドラクマ安により(解決とは言わないまでも)グズグズな中解決する問題なのに下手に通過がユーロなものだから連帯責任みたいな調子になってしまい、事実上ギリシャは自治権を喪失した訳です。
言うならばユーロの通貨統合は「完全に時代遅れなアプローチ」だったのであり、
下手すると株式会社なる概念が崩壊しかねない時代において、「いかにも旧来の経済学的方向に乗ってしまった」という結論かと、
かといって容易に自由市場経済における株式会社に代わるものなんて想像もつかないのでありまして(笑
(いやなにも共産主義的左翼論が右肩上がりなんて話をしようってのではありません。株式会社の概念における「株主による意向」ってものが当初予定の民主的イメージでは無く、グローバル金融経済的意味で『ひとつの覇権主義下の子会社』のような形で、ギリシャじゃないですが自治権を喪失する傾向があるって事です、)
ご存知のように後期資本主義では「一部上場」は一流を指しません。
(公開して資本調達が必要なペーペーでは無い)
M&A含めて外部からの干渉に対する強さという意味でも(非公開でいける=ファンダメンタルが強いですから)、本当の一流は非公開になります。
これってですね「後期先進国における個人レベルの単独者化(インディペンデント系)」と相似だったりするんですよ。
つまり『大EU』が検討されていた当時、
統合の中止は『軍事安全保障』であり『ビザ不要の域内国境線の事実上の解体』であり、デカイ部分のセイフティネットまでで止めて、
逆に通過含めて自治権は細分化を促進して(各国が緩やかに分離独立してもいいかなぐらいに)個性化というかミクロ化してもいいフリーエコノミー的領域の解放を目指すべきだってんではないかと。
(ここ日本における中央集権的国家の解体における地方自治権の拡大と重ねて考えればわかりやすいと思います。)
企業で言うならば「遊び半分のバカ部門」を子会社して(株主からやんや言われない聖域化して)気ままに好き放題やらせるみたいな”要素”が本来の強さだったのかも知れないんです。
現代経済学においてその解釈を悩ませている『フリーエコノミー的なるもの』ってのはそういう話だったのかも知れないですね。
随分考えてきたのですが「フリーエコノミー」ってのは所謂経済学の最適均衡論みたいな時代から存在する”遊び”が独立したもので(昭和はここ企業内”投資”と見ていたと思いますがこれは当時適当な言葉がなかったからで純粋な投資では無いでしょう)、その対立概念が”仕事”みたいな領域の話なのかもです。
(勿論まだまだ結論は出ず、)
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