political correctness 「ポリティカル・コレクトネス」、所謂「表現における政治的配慮」という意味ですね(昭和の日本では「放送禁止用語」として理解されていたアレです)。
メディアなどでは通称「PC」とも呼ばれ、昨今世界的に”アンチ既得権世論”において「左翼政治思想メディアに対する批判」する時の記号だったりします。
批判の中心はわいせつや不謹慎な表現がどうこういうものでは無く、PC規制のお題目のもと「都合の悪い事を意図的に報道していない」など公正とは言えない報道の偏向(代表例が移民事件の隠ぺい)があるというものです。
表現したい内容が明解な場合、考えるまでも無く「意味の無い不謹慎な表現を避けることは自然な判断」ですから(それこそ”意味が無い”のですから)そこに専門用語が必要なのか?と思いますが、
何時ごろでしたか、60年代?大島渚監督などにも代表される芸術か猥褻か論争時のように、本来PC規制ってリベラル派から表現の自由として批判の対象となるものでした。
欧州などに顕著な「左翼メディアがPCを名目に偏向報道している」状況は本末転倒なワケです。
特にフランスの風刺画メディアのテロがありましたよね?
あの風刺画メディアを支持するわけではありませんが、本来メディアははそっ方面であるのが本道であり(PCなどの自主規制をいかに突破するか)、国営メディアであればまだわかるのですが(”保守派ならまだ理屈もわかる”と申しましょうか)、何がどうなっているのやらと思うところです。
日本の場合だと「大新聞と週刊誌」みたいな形で、ある程度マスメディアは”保守派見做し”なのかも知れませんが(TV局も免許制ですし)、近代以降言論界の筋論的に左翼リベラルが自主規制をいいことに報道を偏向させるってのは、あまりに論理矛盾していて受け取る側も困惑するワケですよ。
その困惑の延長に(ネット世論などの)「ブチ切れ批判」も出てくるのだろうと、
(※思うに「左翼リベラル」ってのからして言語として矛盾しているのでしょう。)
自らの権威も高らかに「メディアの論調についてこれない世論は民度が低くバカである」みたいな様相は滑稽ですらありますが、そりゃね先進国は”民度が高い”のですから庶民に反発もされますよ(知事候補だった某鳥越氏もそんな権威高風情が顕著でした)。
米国大統領選に見られる「アンチ・エスタブリッシュメント」には勿論そんなメディア批判も含まれており、ネット世論を先鋒に世界的な動きになっています。
■「行き過ぎたPC規制」って企業・団体や権力による「スラップ訴訟(威圧訴訟、恫喝訴訟)」への対応・防衛から始まったのかも知れませんが、ウィキリークスやSNSや2chなどのネット言論の動向と真逆の動きとなっており(この反動でネット世論において無礼講とばかり暴言がファッション的に用いられてしまったり)、
一体誰のためのPC規制なのか意図不明な世界になってきてます(ここってSNS系イジメ問題の一要因になっていやしないか?)。
勘繰り過ぎかもしれませんがトランプ氏の主張のように、PC規制を回避するため「表現の自由が最大に担保・法的に保証されている”政治”を表現の場として選択・活用するルート」が開発されるなど、ワケのわからない紆余曲折となっており(政治が新手の広告手法にもなり兼ねない)、
流石にこの動きまで「アンチ・エスタブリッシュメント」であるとか「アンチ・マスメディア」で考えるのも無理があります。
民主主義深化中の一断面なのかな?とも思いますが、”煽り技法”にはそれ自体に表現すべき内容なんてありませんから(ネットで言えば炎上商法)。
事の本質は「表現の自由がPC規制をお題目にしてよれている」とこであり(PC規制が伝えるべき事実の内容にまで及んでいる)、
■「自由に言うべきことは言う」
地味ですが、それこそリベラル主義ってなものです。
(どこの誰なのブログ記事が「保育園でなんとかしね」のようにPC規制の逆表現を陰謀論的拡大引用するなんてトンチンカンな事件が起きる昨今ですが、結局それもブーメランになっただけでした。)
煽りは反動を生むだけなので、長期的には逆効果になるリスクの方が大きいでしょうに。
ひょっとすると、PC規制の行き過ぎってのは「内容が乏しいからこそ”逃げ道として乱用”されている」のかも知れません(反対の炎上商法も同じく)。
「スムーズに(自問自答も無く)PC規制に乗る文章」=「内容が無い」って事なのかも知れません。
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